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能登半島地震 被災から282日め

Yamaori
寝る前の時間に、この本を読み始めました。
大学を卒業し寺へ帰った頃は、ブッダや親鸞の教えが見える寺を目標とした僧侶としての日々を送りたい、そういう意気込みを持っていました。
しかし、私ごときが発信しても何も反応がなく、ブッダや親鸞の教えを求めている人なんていないんじゃないかと思うようになりました。
「家の宗教から個の自覚へ」、真宗大谷派の同朋会運動のスローガンは、親鸞の教えを聞く教団としては当たり前のことですが、自らが置かれている現実に対する認識ができてはいないのでは机上の空論の理想でしかないように思いました。
山折哲雄の序章の一部に現代の仏教が置かれている立場が端的に書かれていました。

 

「十三世紀の鎌倉時代こそ宗教改革の時代、という常識があることは誰でも知っている。
 法然や親鸞、道元や日蓮のやった仕事だ。
 伝統破壊、個性の発揮、平等観念の深化などという。
 その総仕上げとして、信仰の内面化といったスローガンがつけ加わった。
 それを機に「個人」の意識が芽生え、「近代的人間」の誕生が予告されたというわけだった。

(略)

 鎌倉時代の「改革」運動のすべては、やがて「先祖崇拝」という名のより大きな信仰の流れに呑みこまれていくからだ。
 法然や親鸞、道元や日蓮などの個性的な匂いが蒸発し、ご先祖様を軸とする「墓崇拝」、「骨崇拝」へと姿かたちを変えてしまったからである。
 その体制が国民的規模で固まったのが江戸の近世。
 その信仰のシステムが明治近代をへて今日に及んでいることは、もはや周知のことだ。
 現代日本人の「宗教ぎらいの墓好き」、「信仰ぎらいの骨好き」も、そこに由来する。
 とすれば、そもそも鎌倉時代には「宗教改革」など存在しなかったといってもいいはずだ。
 それがいいすぎならば、せめて流産したというべきではないか。」

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