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2009年3月

能登半島地震 被災から738日め

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向いの改装中だったスナック、看板が上がりました。
なんとなく、そんなような気はしていたのですが、まさしくピンク。
開店後はどうなるのでしょうか?

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能登半島地震 被災から737日め

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舗装屋さんによる境内の舗装の補修が行われました。

 

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隣の漆器屋さんの駐車場にクレーン、何事かと思ったら、どうも3階へ大きな荷物が運び込まれたようです。
残念ながら、運び込まれるところは見ていませんが・・・。

 

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先日から向いの貸店舗で大改装が行われています。
2年前まではスナックだったのですが、地震後に閉店しそのままになっていました。
業者の方に訊ねると、新たにスナックになるということでした。

 

何気なく日数計算をしてみたら、日数が30日間違っていました。
どこで間違ったのかと確認したら、約一ヶ月前でした。
前日の日数に1日足すだけの単純なことなのですが、その簡単なことを1回間違えただけで、その後もずっと間違え続けることになります。
一つのことがずっと影響を与え続ける、たかだかブログのタイトルに表示している日数ですがそんなことを感じました。

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能登半島地震 被災から736日め

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昨日から女房と3男が横浜へ出かけています。
横浜には2男がいますし、私の兄夫婦もいます。
一応、3男の春休みの旅行という名目ですが・・・。 (;^^)

で、私は留守番。
食事は、料理が出来ないので、昼も夜もマーケットの惣菜や弁当。
こういう生活にもならされました。 (^^ゞ

それにしても、昨日・今日は土日だというのに暇です。
近年は徐々に土日でも暇なことが多くなっていたのですが、今年は一段と暇なような気がします。
かつては、彼岸の連休やゴールデンウィークはもう勘弁して欲しいというくらい忙しかったのですが、今は懐かしい昔の思い出となってしまいました。
前にも書いたと思いますが、都会では「死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。または、火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらう」直葬が増えているそうですが、そういう社会的変化が輪島のような田舎でも起っているのではないかと思います。
そこへ不景気が追い打ちをかけて一段と暇なのだと思います。
いつかは来るとは覚悟をしていたつもりですが、過疎地・能登の寺に厳しい現実が訪れたように思います。
御門徒の方々が小さな本堂に改築されたのは正しい選択だったと思います。

昨日、お参りに伺った家は老夫婦の二人暮らしです。
80歳を過ぎたご主人が前立腺がん(?)になり、3~4ヶ月入院され、放射線治療を受けられました。
私は放射線治療は痛くも痒くもないものだと想像していたのですが、その方はもう2度とあんな苦しい思いをするのはゴメンだとおっしゃいます。
局所的とはいえ放射線を照射してがん細胞を死滅させるのですから、苦しさが伴うのかもしれません。
あんな苦しい思いをしてまで生きていたくない、何となく理解できる言葉でした。

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能登半島地震 被災から735日め

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受験・進学・学年末シーズンなので、先日から学習塾の広告が目につきます。
我が家の上の子二人はゆとり教育ではありませんでした。
三男はゆとり教育です。
私は、ゆとり教育は、間違った教育行政だと思っています。
土曜日を全休にし、尚且つその上に総合学習という時間を設けました。
いかにも官僚の机上の空論を絵に描いたような施策で、ネーミングの「ゆとり教育」とは正反対の現実を産み出し、格差社会と言われていますが、教育格差を産み出していると思います。
授業日数・時間が短いせいでしょう、それを補うために塾に通う子が多いようです。
そのため輪島のような田舎町でも塾が大はやりのようです。
塾へ通う子は成績がよく、塾へ通わない子は勉強について行けない、そういう構造を作り出してしまっているように見えます。
予習・復習という自宅学習はともかく、本来、学校の授業だけで勉強が出来るというのが理想ではないでしょうか?
三男が勉強が出来ない (;^^)、それを教育制度のせいにするつもりはありませんが・・・。

 

もう一つ学校で疑問に思っていることがあります。
それは、大学受験・進学についてです。
長男は、京都・大阪にある大学進学を目標にしていましたが、センター試験の結果、志望の国公立大学受験を断念し、私大へ進学しました。
高校の先生は、地元の国立大学の受験を勧め、私も受験だけしてみたらどうかと勧めたのですが、結局、国公立大学は受験しませんでした。
長男は、合格してしまったら地元国立大学へ進学させられてしまうことを怖れたのだと思います。
私たちにはそんなつもりはなかったのですが、信用されていなかったのでしょう。 (^^ゞ

5月、高校の同窓会の理事会の場で、校長が、私立大へ合格したら国公立を受験しなかった困った生徒がいる、という挨拶をしました。
私がいることに気づかずにうっかり本音の挨拶をしてしまったのでしょう。
理事会からの帰り際に、息子さんは元気に頑張っていますか?と、お上手を言われました。

私と女房は、息子たちには大都会での生活を経験させてやりたいと思っていました。
長男が京都の大学へ進学したことから、次男もできれば京都かその近辺に・・・と思っていました。
次男も志望大学の一つであった私大に合格しましたが、長男の経験があったので、嫌なら進学しなくてもいいから、高校の実績作りへの協力、恩返しだと思って・・・と納得させ、地方の国公立大も受験しました。
結果、関西圏の国立大へ合格しました。
後期も2次試験のない地方国立大へ出願し、3月末に追加合格の連絡があったのですが、本人の希望で京都の私大へ進学しました。
高校の先生にそのことを伝えると、国立を蹴って私立へ・・・?と驚かれました。

その頃、KO大学と地元国立大へ合格した子がいました。
その子は当然のことのように地元国立大へ進学したようですが、私たちが親だったら、KO大学へ進学させてやりたいなぁ!と思いました。
その子がどういう理由で地元国立大へ進学したのかは知らないのですが・・・。

田舎では大概そういう傾向が強いとは思っていますが、高校の先生達も、国立 > 公立 > 私立という序列を作っているようです。
それは、国公立への合格者数が高校の実績として評価され、石川県の高校は、地元国立大への合格者数を競い合っているからではないかと思います。
石川県での一大閥は、地元国立大卒で、彼らがエリート、そういうことも影響しているのではないかと思います。
だから、高校の進学指導は、とりあえず地元国公立。
地元国立大学はとても優秀なよい大学だと思いますが、私は少し偏重過ぎるのではないかと思います。

女房が、3男の高校の先生に訊ねられたそうです、山吹さんは国公立が嫌いなのですか?と。
嫌いなのではありません、可能なら喜んで国公立へ進学させます。 (^_^;)

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能登半島地震 被災から734日め

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夕べ(26日)のことですが、子供の就職・進学祝いをダシにして、4家族で恒例の鍋宴会をしました。
我が家の長男・次男をはじめ、徐々に子供たちが家を離れて行くので、大人ばかりになってしまいます。

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我が家の3男もチビちゃんだと思っていましたが、4月からは高校3年生。
来年の今頃はどこかへ進学が決まっていなければなりません。
長男・次男も含めて我が家の子供たちは向上心というのか欲がありません。
お寺の子供だから・・・と言ってしまいそうですが、ズボラな両親の子供だから・・・というのが正解だと思います。
少しだけ勉強すれば・・・と思いますが、全くその気はないようで、パソコンのゲームにかじりつきです。
受け入れて下さるところへ進学するしかありません。

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能登半島地震 被災から733日め

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今日は、御門徒からお預かりした本山の相続講金・経常費(毎年の上納金)と御修復瓦懇志の集計をし、納金させていただきました。
今日の納金ではまだ今年度の経常費は御依頼の完納になりませんし、御修復瓦懇志も御依頼の金額には達しません。
女房が「御修復瓦懇志も減らせてもらえたら良かったのにね」と言うので、「減らしてもらってこの金額だよ」と返事をしたら驚いていました。
近年は、正覚寺・報恩講の志を持って来られずに、本山の相続講金・経常費だけを持って来られる方が増えました。
本山納金分、正覚寺への志と分けずに、合わせてご門徒に御案内した方がいいのかな?と女房と相談しながら集計をしました。
社会の変化と共に寺のあり方も変えて行かなければならないと思います、この田舎でも。

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本山への上納金の集金袋です。
いろいろ工夫をしているつもりです。
こういう努力を理解して欲しいと思います。

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能登半島地震 被災から732日め

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輪島には、チラシを分割して販売するシステムがあります。
その2スペースに稚児募集の広告を出しました。

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今日3月25日は能登半島地震が発生した日。
地震から丸2年が経ちました。
もっと長い時間が経ったように感じます。

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能登半島地震 被災から731日め

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今日はWBC(野球)で一日が終ってしまったような気がしました。
私よりも熱が入るのは女房、ピンチやチャンスの度に賑やかです。
無事勝ってくれてよかった。 ヽ(´▽`)/

その野球の途中で、昨日のご法事のお礼においでました。
お爺さんが帰られてから、ご法事の前日にお参りさせていただいたお葬式(諷経・ふぎん)のお布施をいただいていないことに気づきました。
若い方なら、諷経のお布施は?と電話をするところですが、お爺さんに電話をしても、お布施は上げただろうと言われて、言い争いになるのは目に見えているので、電話は止めました。
先日も、法事と葬儀(諷経)の日程等を確認して叱られたばかりですし・・・。
それに、正覚寺からお布施が足りないと追加請求された、となっては取り返しがつきませんから。
諷経のお布施を上げていないと気づいてくださればいいですが、それはたぶんないでしょう。
諦めるしかありません。
高齢化社会の難しさを改めて感じました。

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能登半島地震 被災から730日め

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今日は一日延期された満中陰(四十九日・忌明け)法要にお参りさせていただきました。
輪島は、とても中陰(七日勤め)を大切にする土地柄です。
毎週多くの地縁血縁の方々がお参りに集います。
正覚寺では、毎週中陰壇(お骨の前)で、正信偈・同朋奉讃のお勤めをしています。
そのお勤めに使っている勤行本の評判がよく、譲って欲しいという申し込みが多くあります。
今日のご法事でも譲って欲しいと言われました。
実は、この本を御門徒の方々への落慶法要の記念品の一つにしたいと準備をしています。
今日のご法事の場でそのことを伝え、他寺のご門徒の方々にとりあえず納得していただきました。

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夕方、女房と二人で「正覚寺復興便り」を封筒詰めしました。
明日、発送します。

そうそう、今日、落慶法要の稚児行列の申し込み第一号がありました。
長男の同僚の市役所職員の方でした。

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能登半島地震 被災から729日め

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「正覚寺復興便り」を印刷しました。
復興便りも14号になりました。

 

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封筒の印刷もしました。
これが結構厄介です。
プリンターは、封筒やハガキが苦手です。
明日、復興便りの封筒詰めをし、明後日には発送の予定です。 

 

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午後、お参りから帰ると仏具屋さんが来ていました。
巡讃卓の台兼収納箱を届けて下さったのでした。
贅沢をするつもりはありませんが、今後も必要なものは落慶法要までに揃えたいと思っています。

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能登半島地震 被災から728日め

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明日(22日)ご法事のお約束がありました。
昨日の朝、その家から電話があり、隣家の親戚の家に不幸があり、そのお葬式が22日の午後1時になりそうだとのこと。
そのためご法事を23日に延期するかもしれないし、隣家のお葬式に私に諷経(ふぎん)としてお参りしてもらうつもりだということでした。
隣家のお葬式の日程等が確定していないということでしたので、確定したら確かなことをご連絡して下さいとお願いして電話を切ったつもりでした。
夜になっても連絡がないので、こちらから電話して確認するつもりだったのですが、今朝(21日)その方から別の用件で電話がありました。
向こうの要件がすんで電話を切ろうとされるので、ご法事の日程等の確認をさせてもらいました。
ご法事は23日10時に延期とのことで、お斎もされるとのことでした。
続いて、お隣のお葬式はどうしたらいいですか?と私が尋ねると、
昨日電話して奥さんにお願いしてあるのにどうしてしつこく質問をするのか?
昨日電話した意味がないじゃないか!という趣旨のことをおっしゃいます。
私は、確定した確かなことを聞いていないので確認しているのだと言うのですが、私がケチ・インネンを付けていると思われたようで、怒られます。
この方は、元気で若々しくしっかりしているとはいえ80歳を過ぎたお爺さんです。
子供さん達が同居されているのですから、若い方達が連絡して下されば何でもないのですが、お年寄りが電話をしてこられるとスムーズに話が進まないことがあります。
この家ばかりではなく、若い方が連絡してくださればいいのに・・・と思うことが時々あります。
若い方達にすれば、寺のことぐらい親(年寄り)に任せとけばいい、その方が楽、くらいのことなのでしょう。
家庭内の事情が寺に押し付けられます。
押し付けられた方はたまりません。
それが仕事だろう、と言われればそれまでですが・・・。
まだまだ高齢化・過疎化が進みます。
これからますますこういうことが増えるのだろうと思うとため息が出ます。
そういう私も、そのうち若い者には任せておけないと出しゃばる年寄りになるのかもしれません。 

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能登半島地震 被災から727日め

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本山の本堂新築落慶法要の祝辞、祝い金の申請に必要な組長印、査察委員印をいただき、書類を教務所へ発送しました。
寺院の創設年月日、開基法名、本堂新築の事由(経緯)を示した由緒沿革は、下記の文書を添付しました。

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正覚寺 由緒沿革

蓮如上人の弟子となった西善が正覚寺の開基だと伝えられる
享禄2年(1529年)5月、2代目の善祐が「高淵山 山吹正覚寺」と改号
天正年間に石山合戦の篭城に参加し、抜群の戦功をあげたので、3代目は教西という法名を拝領
慶安元年(1648年)10月、正覚寺を輪島の町へ移転
寛文6年(1666年)7月、本堂が上棟
元禄14年(1701年)大地震により倒壊し、元禄20年(1707年?)6月に本堂が再興
安永6年(1777年)3月23日焼失
天保7年(1836年)12月10日再度焼失
明治15年(1882年)12月28日、落成
明治43年(1910年)4月16日の大火での類焼・罹災
大正3年(1914年)7月1日上棟式をし本堂を再建
現在の住職は、開基の西善から数えて19代目
2007年(平成19年)3月25日 9時41分58秒 発生 震度6強の能登半島地震により大規模半壊(客殿、鐘楼は全壊)
2007年(平成19年)10月20日 門徒総会にて改築決定
2008年(平成20年) 4月25日 起工式
2008年(平成20年) 7月 8日 上棟
2008年(平成20年)12月 4日 建物(鍵)の受渡し、竣工
2008年(平成20年)12月 23日 御本尊御移徒
2009年(平成21年) 5月 23・24日 落慶法要(予定)

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能登半島地震 被災から726日め

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寄付札を上げる準備が出来ました。
女房達の習字の先生に揮毫をお願いしています。
とりあえず、落慶法要には札を上げてお参りさせていただこうと思っています。
御礼の意味を込めて。

今夜は、山吹会(正覚寺役員会)でした。
2~3ヶ月に一度、懇親の意味も兼ねて、責任役員、総代、門徒会会員さんと会合をしています。
落慶法要の相談をさせていただきました。

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能登半島地震 被災から725日め

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お稚児さん募集のポスター、チラシ、ご門徒さんへの案内を作成しました。

 

今日、先日お葬式をされた方のお墓にお参りさせていただきました。
お墓の土台が傷んでいるので、納骨までに修理されるとのことでした。
満中陰(四十九日法要)の予定を尋ねると、遠方の妹さんが連休前の土曜日にして欲しいと言って帰られたとのこと。
それならどうしてそれを寺へ連絡して下さらないのだろうかと思いましたが、なぜかまだ決められないとのこと。
寺の者はいつも暇そうにしていると思われているように思うことがあります。
自分達の都合だけで日程を決められても、私の日程が空いているとは限らないのですが・・・。
どうして相談をして下さらないのでしょう。
困ったことです。

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能登半島地震 被災から724日め

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趣味の漆塗りの作業台です。
漆が乾くためには温度と湿度が必要です。
今日は暖かかったとはいえまだ13~4度で、漆が乾く適温と言われている20度以上にはまだまだです。
素人にはきれいに乾かすには難しい条件のようです。

 

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女房は、友達の家のお通夜に出かけました。
夜のお通夜なのですが、午前中から出かけてしまったので、留守番です。
昼食は、長男は弁当を買って来て食べ、私と3男はインスタント食品ですませました。
水を入れて電子レンジでチンするだけ、お湯を入れて3分待つだけ。
発泡スチロールの粒ような物に水を入れて、5分半チンするとご飯になります。
食べにくい箱だなぁ!と思いながら食べ終ってみると、息子は箱を広げて皿にして食べています。
なるほど、あぁすれば良かったんだ。
オジンはそんなことすら分かりませんでした。
トホホです。 ┐(´д`)┌ヤレヤレ

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能登半島地震 被災から723日め

昨日のうつ病チェックの結果を友達に伝えたら、

「なーんの心配もないあなたが、何故鬱病になる??
 そんなら、私は超鬱病になってもおかしくないよ!?」

という返事。

「なーんの心配もないあなた」と見られていることを知りました。
坊さんは、坊主丸儲けなどと言われて、何の心配も苦労もないお気楽な家業だと思われているのかもしれません。
それとも私がお気楽に見えるのでしょうか?
その両方なのでしょうね。

「なーんの心配もない」とは、何の苦労も努力もしていないという意味でもあり、これは誉められているとは思えません。
しかし、「なーんの心配もない」ということは、気楽に生きているということで、「飄々と生きている」ように見えているのかなぁ?と思えば、悪い気もしません。

「なーんの心配もないあなた」の一方には、「超鬱病になってもおかしくない私」、つまり大きな心配を抱えて、たいへん苦労をしている私がいます。
何の苦労もないお気楽なあなたに比べて私は・・・。
だからといって、「あなたは私と違って不幸ですね」と言われれば腹が立つのでしょう。
「大きな心配を抱えて、苦労してよく頑張っているね」と言われれば満足かもしれませんが・・・。

人は皆それぞれ、「自分だけが・・・」、という思いを持って生きているのかもしれません。
一人一人それぞれの人生を生きているのですから、それぞれが「自分だけ」を生きていることは間違いないと思います。
しかし、「自分だけが特別苦労をしている」とか、「自分だけが特別大きな悩みがある」とか、「自分だけが特別頑張らなければならない」、そういう意識は間違っていると思います。
人はそれぞれ悩み、苦労をし、努力しているのでしょう。
「あなたと違って、私は・・・」ではなく、互いに悩み、苦労していることを認め合うことが必要なのではないかと、友達の言葉に思いました。

このブログ、友達が読むと腹を立てるでしょうが・・・。

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能登半島地震 被災から722日め

自民党の笹川尭総務会長のうつ病発言のニュースが流れているのを読んで、何となくうつ病チェックをしてみました。
いくつかのチェックみたのですが、予想通りいずれも中症のうつ病の判定。
寝不足気味で眠い、ダルい、疲労感が抜けない・・・。
約8人に1人がうつ病・うつ状態の可能性がある、日本では約15人に1人が生涯に1度はうつ病を経験すると言われているらしいので、私がうつ病であっても不思議ではありません。
一ヶ所だけですが、パニック障害の可能性があるという意外な結果が出ました。

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能登半島地震 被災から721日め

今日のお葬式でお参りさせていただいた101歳だったお婆さんとは大学生の頃からのお付き合いでした。
学生の間、お盆のお参りに伺うと、「御布施」ではなく「本代」や「お小遣い」と書いた封筒を下さいました。
大学を卒業してようやくその封筒が「御布施」になりました。
若い頃は、一生懸命という純粋な気持ちをいつまでも忘れないで下さいね、とよく言われました。
中年になると、一生懸命勤めて下さるそれがありがたいとおっしゃって下さいました。

 

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地震の直前の3月13日に亡くなった方の3回忌の法要を正覚寺本堂で勤めさせていただきました。
正覚寺の行事の時には、年休をとって志納金の記帳の係はもちろん、僧侶顔負けのお勤めもされ、正覚寺のお世話を熱心にして下さいました。
そんな方でしたので、ぜひ正覚寺の本堂でお勤めをさせていただきたいと思っていたところ、ご遺族の方々も同じ思いだったのでしょう、今回の法事を正覚寺で勤めて下さいました。
とてもありがたくお参りさせていただきました。
とてもまじめな方で、書もその性格のまま教科書通りの字を書かれる方でした。
器用なので仏画なども上手に書かれました。
写真は、残されていた軸を脇にお掛けしてお勤めをさせていただきました。

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能登半島地震 被災から720日め

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午前中お参りに伺った家庭は、子供さんが知的障害者です。
何か助けてあげられればいいと思うのですが、何もできません。
ただ話を聞くだけです。

 

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午後は車で1時間40分ほどの家までお参りに出かけました。
90歳を過ぎたお婆さんと娘さんの二人暮らしの家庭です。
このお婆さん、12月に転んでお尻を骨折したのですが、すっかりよくなられたようです。
私でなければ・・・と待っていて下さる、それがとてもありがたいです。

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桜餅を出していただきました。
私は、甘いものは多く食べないのですが、桜餅は食べます。
厚みのある皮で、お餅っぽい食感がありました。
桜餅をいただきながら、父親を思い出しました。
父親は酒飲みでしたが、おはぎや桜餅が好物でした。
亡くなる日、最後に食べたのはおはぎでした。

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能登半島地震 被災から719日め

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寄付札の表題(?)を書いていただきました。
本山の出先機関である教務所から本堂落慶の祝辞や祝金の申請書が届きました。
本山や教区から祝金が出るなんて知りませんでした。
資金が余裕があって催すことではないので、わずかでも助かります。
一つ一つ落慶法要が近づいていることを感じます。

 

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今夜は頼母子でした。
友達のことで心配になる話しを聞きました。
散会してから、ご門徒のお爺さんが亡くなったという連絡が入りました。
14日お通夜、15日お葬式という日程だろうと思っていたら、15日は友引だから13日、14日の日程でお葬式をしたいとのこと。
14日は既にお葬式の予定がある上に、他に2軒約束があります。
何かと世の中、順調にはいかないものだと思いました。

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能登半島地震 被災から718日め

101歳になるお婆さんが亡くなりました。
大きな声で一緒にお勤めをし、大きな声で念仏を称えられるお婆さんだったので、正覚寺の本堂でお葬式をしてお送りできると思い込んでいたのですが、残念ながら農協のセレモニーホールに決められていました。
日程も、今日の午前中に亡くなったのですが、13日がお通夜で14日がお葬式と決められていました。
何の相談も都合も聞かれずに・・・。
亡くなったお婆さんが意思表示をできるならこんなことにはならないだろうと思いましたが、亡くなった方がお葬式をされるわけではありませんから・・・。
とても残念でもあり、寂しい気がしました。

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能登半島地震 被災から717日め

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京都の朝、ホテル内のコーヒーショップ。
ビジネス街のホテルで、都会の朝って雰囲気を味わう。
さすが京都で、外人さんのグループの宿泊も多い。

 

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ホテル近くに仏光寺があるので出かけてみました。
御影堂の親鸞聖人、真宗大谷派で見慣れた姿とは違うお顔。
誰かに似てるなぁ~sign02と考えたら、分かりました。
マツケンサンバの振り付けをした真島茂樹にそっくり。

仏光寺の参道は、両側に末寺らしきお寺が並んでいて、きれいに整備されていて雰囲気がありました。

 

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ホテルを出て、西本願寺を参拝。
もちろん昨日は第一に東本願寺へ参拝しました。
西本願寺で驚いたのは、本山に隣接して参拝者用の広い駐車場があること。
東本願寺にも欲しい設備だと思いました。

西本願寺は、阿弥陀堂と御影堂の並びが東本願寺と逆で、ちょっと驚き。
向かって右側、境内の中心に阿弥陀堂があるお西の方が納得できるかな?
実は、大きな御影堂が向かって右側(上座)中心で、阿弥陀仏(御本尊)を脇に追いやってそこに座っておいでの親鸞聖人は、居心地が悪い、違うとおっしゃっておられるのではないかと、若い頃に思っていました。

東本願寺は、1977年(昭和52年)の御影堂爆破事件がきっかけだと思いますが、堂内にもガードマンがいて、見張られてチェックされているという気がします。
西本願寺は、ガードマンの目を気にする必要がないので、その分リラックスできる気がします。

御影堂周辺は工事中で立ち入り禁止。

右の写真は門の一つ。
屋根の反りが普通のお堂と逆。
正覚寺の新本堂も同じ反り。
昔からこういうのも有りなんだと思いました。

 

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西本願寺に隣接する興正寺へも参拝しました。
こちらも阿弥陀堂が修理中なのでしょう、立ち入り禁止。
御影堂も脇間で作業をしていて、正面の戸が締められていました。
唐様(ランマ)の周辺に鮮やかな色彩の模様が施されているのが特徴的でした。

昨日の東本願寺、今日の西本願寺とも参拝者・見学者がいて、それなりに賑わっていました。
それにひきかえ、仏光寺、興正寺とも参拝・見学者は私たち二人だけでした。

 

午後1時頃に京都を出た時には、上着を着ていると車内では暑かったのですが、輪島に近づくに従って寒くなり、輪島は午後6時で気温2度、冬でした。

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能登半島地震 被災から716日め

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叔父さんの法要に福井まで出かけたついでに、ちょっと足を延ばして京都へ。
ちょっと足を延ばしてという距離ではないと、従姉妹に言われましたが、そうですよね。
一応、5月に予定している落慶法要の準備に・・・というのが大義名分です。
夕方の空き時間に朝ドラの舞台の祇園をブラブラ。

 

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先日盗まれた仏像が戻って話題になった建仁寺へも。

 

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で、我が女房の京都行きの第1の目的は、当然居酒屋。
写真は、今春大学を卒業し就職をする甥と姪。
チビちゃんだと思っていたのに、もうそんな歳になったのかと思いました。

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能登半島地震 被災から715日め

先日お参りさせていただいた敦賀の叔父さんの法要で思いました。
叔父さんの法事をご縁として、親戚が集まり、友人知人が集まり語り合う。
叔父さんの縁者が集まるのは当然ですが、願主である叔母さんが親しくしている方々が集う行事でもあります。
叔父さんの法事がなければ会うことのない者が一堂に会する、そういうご縁をいただくことが法事の意義かなと思いました。
私が勤めた儀式の内容のなさの言い訳のようですが・・・。

 

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福井の叔父さんの3回忌法要にお参りさせていただきました。
叔母さん方や従兄弟達と語り合う一時を過ごさせていただきました。
これが法要の意義だと思いました。
語らいの内容は、百科事典のように物知りだった叔父さんとは程遠いレベルだったかもしれませんが・・・。

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能登半島地震 被災から714日め

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「園芸愛好家様」というカタログが送られてきました。
園芸用品のカタログのようでした。
かつて、園芸愛好家様はいたのですが、父も母も亡くなりました。

 

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昨日ポストに入れた郵便が2通戻ってきました。
切手を貼らずに出してしまったのです。
いつかはやるだろうと思っていましたが・・・ トホホです。 weep
切手を貼って出し直しました。

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能登半島地震 被災から713日め

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写真は、寄付芳名板です。
寄付をして下さった方々の多くは、寄付の名前が掲示されようがされまいがどちらでもよいと思いますが、記念に残したいと思います。
女房たちの習字の先生に揮毫をお願いしました。
大正12年生まれの80歳を過ぎたお爺ちゃん、まだまだ元気です。

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能登半島地震 被災から712日め

『お葬式 -死と慰霊の日本史-』 新谷尚紀 は、2部構成の本で、後半1/3ほどは「慰霊と軍神」という章です。

軍神第1号は、日露戦争旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫だそうですが、それは軍令部参謀小笠原長生により作り上げられたものだということです。
小笠原参謀が発信した「軍神」の美談に熱狂する事により、旅順港閉塞作戦の無謀さへの批判も反省も、作戦失敗に対する批判も反省も表面化しなかったとのことです。
以下は、そのまま引用します。

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 事実として見るとき、広瀬中佐には特段の武勲はない。
 それにもかかわらず最初の軍神と称賛され祀り上げられてしまったのである。
 軍神の創造と誕生という問題は、帝国陸海軍にとってのその時々の利害関係と、国民世論の動向とその操作、という情報戦略の上での問題という部分が圧倒的に大きい。
 それは、後述する真珠湾の九軍神の場合にも共通するが、
  ①開戦当初の絶妙のタイミング
  ②その死に方が壮絶であるという点
  ③生前の人物像が忠孝仁愛、勇猛礼節など模範的軍人として宣伝できるという点
 このような三点にその特徴がある。
 そして、それは軍神の創造が国民世論の戦意高揚を第一の目的とするものであればこそ、当然といえば当然なのである。

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真珠湾の九軍神の一人、上田定(かみたさだみ)さんの母親さくさんは「軍人の母」と賞賛されましたが、新谷尚紀氏の調査によると、

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わが子を亡くした母親さくさんの痛烈な悲しみと怒りの表現であった。
三月七日の九軍神の報道をうけて慶びに満ちて祝福に訪れた村長に対して、母親のさくさんが、たいへんな剣幕で「おごりかかった(怒りをあらわにして迫った)」というのである。
「あんた(あなた)には、おめでたいことかも知れんけど、わし(わたし)のためには、さだみの命を、国に捧げたことは、いっそ(ちっとも)おめでたいことじゃありません。
あんたには親の心はわからんでしょう。
はあ、えっと言わんこう(もうたくさんお話にならないで)、往んでくれんさい(帰ってください)。
志願したわけじゃない、上の命令で行かずにならなくなった…、さだみは、しかたなしと言うとった…」。
 これは、近所の誰一人知らないものはないほどの、「おおばなし(たいへんな話題ごになったということである。
 「増本村長が、“かみたや(上田家の屋号)”のおばあさんにやりこめられて、ほうほうのていで帰ったそうな」という話が広がり、女丈夫で知られた、さくさんの言葉を聞いた近所の人たちはみんな強く胸を打たれたという。
戦時下のこと、そんなことは言ってはならないことと思いながらも、さくさんの、悲痛と激情については母親としてもっともだとみんな思ったというのである。

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「パール・ハーバーも原爆も、2度とあってはならない。
 いつも戦争で犠牲になるのは庶民だから」
上田定さんの弟、上田武三さんの言葉だそうです。

軍神、英霊と戦没者を称え、慰霊のために建てられ、お参りされている靖国神社ですが、その本当の目的は、戦没者の慰霊でも功績を称えることでもないと、改めて感じました。

ネットで検索しているうちに知ったのですが、肉弾三勇士の軍神もねつ造されたもののようです。
爆弾三勇士の真実

肉弾三勇士

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能登半島地震 被災から711日め

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今日は2年前に亡くなった叔父さんの命日だと思います。
叔父さんが亡くなった頃は、2006年大晦日の紅白歌合戦をきっかけとして「千の風になって」という歌が大ヒットしていました。
病院へお見舞いに伺った方が「千の風になってという歌が流行っていますね」と問いかけると、叔父さんは「あの歌は嫌いだ」と答えたという話しをお通夜の晩に聞きました。
「お墓に私はいません 死んでなんかいません 千の風になって 吹きわたっています」
この歌は、私にはなんだか死んでも死にきれない亡者、幽霊の歌のように聞こえます。
叔父さんがなぜ嫌いだったのかその理由は分かりませんが、その時がきたら往くところは浄土と決まっている、フワフワと飛んで歩きはしない、そういうことだったのではないかと思っています。

人が亡くなったら、全てが消え去って無になるかといえば、そうではないと思います。
体は、水素や酸素、炭素などとなり、歌われているように光や星になることは不可能ですが、雪や鳥の一部になるかもしれません。
しかし、それは私がそのまま雪になったり鳥になったりするわけではありません。
また、その人の業績、功績といったものは形としてばかりではなく影響として残ると思います。
しかし、それは影響が残るのであって、その人自身は死んで亡くなっています。
この歌を仏教(浄土真宗)の教えに通じるものがあると本願寺派では言われる方がおい出るようですが、私には違和感があります。

090304083753 

09年03月04日08時37分発表
発生時刻 04日08時32分頃
震源地 福井県嶺北(北緯35.8度 東経136.2度 深さ約10km)
規模 マグニチュード3.2
震度1 福井県:福井池田町   越前町   南越前町   越前市   敦賀市   

今朝は福井を震源地に地震があったようです。
新潟(中越)と福井で起こる地震、能登にも来るのではないかと不安です。

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能登半島地震 被災から710日め

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先日に引き続き、
『お葬式 -死と慰霊の日本史-』 新谷尚紀
からの引用です。

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 戦後の一九六〇年代以降の高度経済成長によってもたらされた新しい時代、現在は、「供養」の部分が減少し、死穢の感覚も減退して、「記憶と交流」というもう一つの新しい段階へと入ってきているのではないか、と考えられるのです。

 死者は、かつてのようにあの世で寒さにふるえ飢餓に苦しみ衣食を求めるような存在ではなく、したがって衣食の資養、供養の必要はないものと考えられてきているようなのです。
死後の人びとは、この世と同じ快適な衣食住を得られる存在であり、衣食の資材の供養ではなく、生活の快適さと相手のいないさみしさとをたがいに分かち合えるヴァーチャルながらもパートナーシップ、フレンドシップを共有しあえる関係者どうし、という関係になってきているようなのです。

(中略)

 人びとの考え方が、死者への供養よりも、彼や彼女を失った喪失感にとまどい悩む自分の気持ちの安定を求めるグリーフ・ケアが中心となってきているのです。
それは、未知で不安なあの世へと旅立つ死者たちの苦しみや不安や迷いを想像し、それに共感してその冥福を祈るという、かつて伝統的であった考え方ではなく、悲嘆の中にいる自分が癒されたいという個人化社会を反映する考え方のようです。
死をめぐる「他者愛から自己愛へ」という変化といってよいかもしれません。
 
(中略)

 良いか悪いかは別として、現代社会を反映して、「供養」から「記憶」へという重点の置き方の変化が、いま死と葬送の日本文化史の中に起こってきていることは確実なようなのです。

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時代が、死者に対する考え方が浄土真宗に近づいてきているように思います。
著者は、それを
「高度経済成長期以降の日本に実現した、衣食住の豊かさと、情報化、高速化の充実は、死後の世界への想像力の上でも、現実世界を反映して自己中心的な傾向が強まってきているようです。」
と言っていますが、私はこれは違うと思います。
供養は他者愛と言われていますが、純粋に死者を愛する気持ちのみではないと思います。
死者の霊を怖れ、祟りを怖れ、他人はともかく自分が先祖の霊魂による災いから逃れたいという思いで供養をしていたのでしょう。
先祖の冥土の幸福を祈りながら、実はそれは自分の幸福を願っているのでしょう。
自己中心的であることに違いないと思います。

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能登半島地震 被災から709日め

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古いながらも快調に働いていた温風ヒーター、背中の後ろのモーター音がプツっと聞こえなくなりました。
灯油は入れたばかりだったし、3時間タイマーが働くほどの時間でもないし・・・。
どうも壊れてしまったようです。
新しいのを買ってこようかと女房に相談すると、もうしばらくしか使わないんだから・・・とのこと。
そうですよね、もう3月なんだから・・・。
ほとんど使っていないという古い小さなストーブを使わせてもらうことになりました。
皮肉なもので、真冬の気候に逆戻り・・・。 weep

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能登半島地震 被災から708日め

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昨日午前9時から輪島でご法事にお参りして、福井県敦賀市まで叔父さんの7回忌のご法事にお参り。
今朝7時にホテルを出て、11時には輪島でご法事にお参りさせていただきました。
驚いたのは、移動の所要時間。
輪島から敦賀まで3時間半を予定していて、ひょっとしたら行きも帰りもギリギリか遅刻になるんじゃないかと覚悟していたのですが、トイレ休憩を入れても3時間少々で着いてしまいます。
大まかですが、敦賀~金沢が1時間半、金沢~輪島が1時間半。
同じ1時間半ですが、金沢~輪島の1時間半の距離が過疎を作っています。
そう思いながら帰ってきました。

それにしても、輪島は寒い。
金沢から能登の入口は、午前9時で10~11度だったのに、輪島は7度でした。
北へ延びる能登半島なので当然なのですが・・・。

 

午後のご法事で集まった方々はそれぞれ100歳になろうという親がお出でになり、自然とお葬式が話題になります。
余所のお寺のご門徒の方がおっしゃいます、農協の葬祭会館でお葬式をしようと思っていると。
正覚寺の本堂を利用すると、自分のお寺の住職さんが気分を害されるのではないかと心配だからとのことでした。
そういえば、先日も違うお寺のご門徒から同じ話しをお聞きしました。
御門徒の方達はそういう気遣いをされているんだと思いました。

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