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神にはなれないがブッダにはなれる

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今朝の北陸中日新聞
田上 太秀 仏教談話
- 神にはなれないがブッダにはなれる -

新刊の『なぜ、脳は神を創ったのか?』という本のなかで、著者の苫米地英人氏は 「人間の脳は、幻視、幻聴、幻覚をよく起こします」と述べて、神は人間が創ったのだという。
苫米地氏は脳科学者の立場から「神の存在を感じるような神秘体験は、神がいるから実際に体験したのではなく、脳が情報処理を誤り、神の情報をつくってしまうことでもたらされ」たものともいう。
 神がいると自分で思っているのは、確かにその神をはっきりと認識していたわけではなく、それまでの記憶からそれに似たような情報をもって神がいると思い込んでいるにすぎないというわけである。
 たとえれば、麓の茶屋の主人が山頂の祠に鬼がいるらしいと、山を越えてきた旅人から最初に聞いたときは信じなかったが、後日、降りて来た数人の旅人から「いるらしいよ」と聞くたびに、主人はあの祠に鬼がいると思い込むようになったことに似ている。
神の存在をだれも確かに見たという人間はいないのに、神がいると思い込んでいる人たちからの情報を脳がつなぎ合わせて、現にいるという幻覚を創り出しているのだと苫米地氏は論じている。
 この論点は神は実際に存在しないということにある。
となれば、ほとんどの宗教、というよりすべての宗教は幻想、幻覚によって作り出された神を信仰していることになる。
 この説に対して神を信仰するキリスト教やイスラム教なくどの宗教からは人いに反論されそうだが、釈迦はごもっともな説と賛同することだろう。
 なぜならば、釈迦はあらゆる形作られたものには不滅なものは何一つなく、すべてが寄り合い、依り合い、縁り合いながら生じては滅しているという、因果の道理を説いたからである。
 釈迦はこの道理に基づき、人の歩むべき道を説いたにすぎないので、いわゆる仏教という宗教を立てたのではない。
神の存在、世界創造の神を説いたのでもない。
 釈迦は神を信仰しなくても人はほんとうの安らぎを得られる道を教えた人である。
 いかに人は生きるべきか、いかに己の心を処すべきか、いかに世間に身を処すべきかなどを説いたのであって、神がなくては生きていけないとか、神の思し召しを受ける信仰に生きるべきとか、まったく説いていない。
 釈迦はものの道理を熟知して、その道理にのっとって正しい習慣を身につけ、規律正しい生活をすれば、だれでもブッダになれると言った。
キリスト教やイスラム教では神の教えにしたがい、規律正しく生きても、決して神にはなれない。
死後も神に召されるとはいえ、つねに罪人で、人間自身が創った神にいつまでも従わなくてはならないという。
 ブッダとは高潔な人格を持ち、人々の尊敬の的となる理想的人物のことである。
そのブッダは神でもなく、創造主でもなく、予言者でもなく、呪術者でもない。
 そのブッダを人々は仏像で表し、その仏像を礼拝すれば御利益があると考えている人が多いが、それは大きな誤りである。
 もともと仏像は安らぎを感応し、釈迦への帰依を誓う対象であった。
もし対面する仏像を、あなた自身が釈迦のような人間になろうと願い、つねに自らを反省し、一生にわたって釈迦の教えにしたがって生き、人につくすことを誓うために向き合った鏡とみたら、その仏像に釈迦と重なったあなた自身を発見できるはずである。

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「上」とありますから続くようです。
次回が楽しみです。

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