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報恩講満座

003 
今日は川向こうのお寺の報恩講満座。
さすがに大きなお寺だけあって大勢の参詣。
これだけお参りして下されば勤め甲斐があります。

 

013
お勤めの前にご門徒の方たちによる親鸞聖人の一生の寸劇。
10月17日の親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会に演じられた劇です。
劇が終わって、住職さんが参詣の皆さんに、帰らないで最後までお参りしていって下さいね、と声をかけられます。
そうなんですよね。
劇の前にも若さんが、11月27日午後7時から親鸞聖人の御一代記である御伝鈔を拝読しています、来年から是非お参りして下さい、とご挨拶。

 

今朝の北陸中日新聞
「商業化している葬式(下) -消費者となった遺族-」
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 現代日本の葬式は、一部地方ではまだ残っているものの、かつての血縁共同体や地域共同体の手から離れ、個人化して、実際の仕事は葬祭業者の手に委ねられるようになっている。これを「商業主義」と批判する人がいる。今遺族の側にいるのは、多くの場合、初めて会った葬祭業者である。
 日本の仏教式葬式は八世紀頃からだが、民衆の葬式は十五世紀の室町後期の戦国時代から広まった。
(中略)
 かつては僧侶も地域共同体と共に遺族の傍らにいて葬式を差配したものである。死者が出たら近所の人が二人一組でまず檀那寺の僧侶に知らせ、僧侶が駆けつけて枕経をあげた。そうして遺族、隣組の関係者を集めて葬式の段取りを組んだ。僧侶は終始、死者や遺族に寄り添って葬式を行った。
 今、自宅で死亡するのは12%程度、自宅で葬式をするのは一割を切った。二〇〇〇年以降の顕著な傾向は、遺体が自宅に戻らなくなったことである。斎場(葬儀会館)や火葬場の保冷庫に直行する。それと共に死亡直後の大切な儀礼である枕経がなくなる傾向にある。斎場で葬儀だけではなく追悼儀礼である初七日まで行い、火葬場まで付き添わない僧侶も少なくない。
 江戸時代から寺は「葬式仏教」一と揶揄され続けてきた。しかし、そのお寺に死者供養を託したのは檀家となった民衆であった。民衆からすれば民衆もまたホトケ(仏)となり、浄土に赴くことを可能とした仏教に人格を認められた想い、救いを感じたのであろう。寺檀関係は江戸中期に寺請制度で法制度化され、明治維新の一時期、神仏分離による廃仏毀釈で迫害されたが明治三十一年の明治民法による家制度で関係が強化された。
 寺と檀家(檀信徒、門徒)の関係は、法施と言われる寺の活動を信徒がお金や労働による財施で支えるという関係にある。「おらが寺」と言うように、寺を檀家が支えるのが当然とされた。
 しかしそれが崩れたのが戦後の高度経済成長期である。檀信徒の都会への流出、都会でも移動が激しく、寺檀関係が弱くなった。都会に出た地方出身者の多くが宗教的浮動層を形成するようになった。
 宗数的浮動層が選んだ道は都会の寺の檀信徒となることではなく、葬式や納骨や法事だけを一時的に頼む「消費者」であり、いちいちの料金化、明朗会計を望んだ。
 葬式における仏事は宗教行為なのか、それとも対価を伴うサービスなのか、大きな分かれ目にきている。
 大手スーパーであるイオンが葬儀斡旋業に参人、僧侶の布施目安を提示したことで全日本仏教会と激突、イオンは目安表を撤去したが、目安表示を歓迎する一般の人が多かった。
 ということは、いくら寺が布施で宗教行為だと言っても、現実には葬式費用の一部のサービスと理解する人が多いということである。
 葬式で宗教者の関わりが薄れたことは、一つの不幸である。本来は大切な家族との死別という事態にあって遺族は精神的な助けを得られず孤立しているからである。
 今の葬式では、僧侶も引き、遺族も僧侶から引き、その関係は非常にわかり辛いものとなっている。遺族は、宗教者に儀礼形式を整えてもらうことだけを期待する。それでは何かもったいない。
 僧侶(宗教者)は積極的に遺族に近づき、遺族の声、想いに耳を傾ける。遺族も不安やその他遠慮せず僧侶に訊く。葬祭業者も両者の間を分けるのではなく、両者の信頼関係づくりを支援する。そして三者とも死者を第一に考える。こういう関係づくりが今こそ求められる。
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葬式仏教という言葉で批判されてきた僧侶のあり方であるけれども、現代では葬式仏教ですらなくなりつつあろうとしているようです。
僧侶の声明は葬式のムードを盛り上げるバックグラウンドミュージックでしかなくなってしまっているようです。
枕勤めや火葬場のお勤め、還骨勤行などのお勤めは僧侶にとっては負担になります。
それらを一括してお通夜や葬儀の際に勤めれば僧侶は楽です。
また、段取りを含めた運営全体を葬儀屋任せにすれば僧侶の負担は軽くすみます。
しかし、その合理化することが自分で自分の首を絞めることになっている、そのことに僧侶は気付くべきだと思います。

 

Sakurairo  
この小説を読み終えました。
つまらないかと言えば面白い小説でした。
しかし、面白くて一気に読んでしまうというレベルではありません。
ストーリーは悪くないのですが、安っぽいお涙ちょうだいの文章のように私は感じました。
なにか物足りなさを感じる小説でした。

 

002
夜は町内の会の忘年会。

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