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真宗学が栄えて、真宗は廃れる

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相変わらず色々な業者が入れ替わり立ち替わり改修工事が進められているようです。
今日は大型車が止められて作業をしたり器具を搬入したり・・・。
向かいの正覚寺の私たちも迷惑し不快な思いをしています。
私たちばかりではないでしょう。
隣近所の人たちが皆迷惑していると思います。
人は迷惑をかけずには生きていけません。
だからお互いさま。
でも、お互いに気持ちよく生活するために一言挨拶があってもいいのではないかと思います。
工事の依頼主、スナックの経営者が一言ご迷惑をおかけしますと挨拶をしてくれれば気持ちがいいと思うのですが・・・。

 

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今日もこの本を少し読みました。

仏法はむつかしい、わからない、もっとやさしくわかりやすく・・・、そのことの考察での一文。

「「平易」と言えばもちろん対極は「難解」だが、平易と言っても難解と言っても、それを問題にする立場を明確にしなければ空廻りに終わらないか。
そうであるとするならば、それは何か。

 もとより教えは教えられた人がいることによって証明される。
つまり教えに生きる人が生まれることでなければならない。
もし人を生まなければ、平易であろうと難解であろうと、結局は安易なのではないだろうか。
その意味で平易とか難易とかの論議は、教えに生きる人を生むか否かの一点で問われなければならない。」

この言葉は正しいと思います。
でも、私は大学の先生、学者の言葉だと思います。
大学は学ぶべき場、学生は難解な先生の言葉、理論を一生懸命理解しようと努めます。
理解できなければ、それは自分が勉強不足なんだと、さらに理解しようと努めます。
偉い先生は難解なことを難解な言葉で語るもの、それが当たり前の立場にいる人の言葉だと思います。
 
それに難行道と易行道。
念仏だけで救われるという浄土の教えは易行道、誰もが救われる道。
しかし、その教えが難解でいいなんて根本的な矛盾だと私は思う。
難解な教えを誰が信じられるでしょう?
誰が念仏を称えられるのでしょう。
念仏は難解な教えを理解できるエリートのものだと言われるのでしょうか?
 
私は学者や高僧と言われる人たちの怠慢だと思う。
もちろん高度な学問的な考究を求める人たちには、難解な論を説かれればいいでしょう。
しかし、圧倒的多数の庶民はそんなものを求めてはいないし、そんなレベルではありません。
難解な教えを庶民のレベルに合わせて平易に説く、それこそが学者、高僧ではないでしょうか?
私には、上の文は怠慢な学者の言い訳にしか思えません。

「真宗学が栄えて、真宗は廃れる」、先日ある先生から聞いた言葉です。

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